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いつも、ぼくださんにお世話になっております。
今回のシリーズで日本語対応手話という言葉にちょっと反応して続きを待っていました。掲示板が盛り上がっているということで始めてお邪魔します。
掲示板は、自己責任で、意見交換ができるのですが、つい傍観者になってしまう私です。が、今回は、いろいろ気になりまして発言させていただきます。
私は、聴覚障害者とコミュニケーションをとりたいと思って手話を学び始めました。
手話とはコミュニケーションツール(言語)であって、いろいろなパターンがあるものだと自覚しながら身につけるものだと思っています。「英語の嫌いなお前がよく手話なんて続けられるね」とはるか昔に親に言われたことが今になって思えば一番しっくり来ると思います。
何も知らない年寄り?(昔は若かった)でも言語としてわかってくれていました。
今は形ばかりに追われる方が多いように思います。左右のろう者が違う表現を使っていてもコミュニケーションが取れる。其れが手話の本来の姿であり、わからないことは言い換えながら各々の手話で会話する。それが楽しい会話というものではないでしょうか。
日本手話というよりも昔から使われている表現を理屈だけの「新しい手話」として開発?し、一部の人しかわからないのに広めようとする。手話通訳者は新しい手話ができなければ資格や級が取れない。でも、知らないろう者の手話はまともな通訳ができない。
講師になれないから、新しい手話を必死に覚えようとする年配のろう者。「ろう(あ)」者という表現は古いと否定する壮年の手話講師(ろう者)。挨拶を終えた後、「今の僕の話は読み取ってもらえたかな」と不安そうに聞きに来るろう者に「聞えない人はわかってくれたと思うよ」と答える私。
高齢のろう者が健聴者に気を使うことができなくなり、本来の手話で会話していると、「あの人もぼけちゃって・・」とのたまう通訳士。思わずぶちきれた私ですが・・・・。
難しい文法や研究はお任せしますが、手話はいかに目の前のろう者と会話ができるか、手話のわからない人に思いを伝えたり、会話の仲介をしたりできるかが大切かという原点に戻ってほしいと思うこのごろです。
ぼくたまさんの投げかけは、「ナイスタイミング」と思いました。
で今日のメールフォルダは語ろうかの次に「日本手話・日本語対応手話」を常に話されるKさんのメールが届いております。
長くなって申し訳ありません。では、ぼちぼち
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